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宗教問題 2014年12月 9号
Special Interview ●白川勝彦 元自治大臣・国家公安委員長
自公連立は日本をファシズムに導く
2000年まで自民党所属の衆議院議員を務め、自治大臣や国家公安委員会長を歴任した白川勝彦氏は、1999年に始まった自民党と公明党の連立・選挙協力に当初から反対してきた数少ない自民党代議士の一人だ。2001年にはそれを理由の一つとして自民党を離党。現在でも「公明党は政教分離に違反した存在である」と公言してやまない。『自公連立は日本をファシズムに導く』とまで言う白川氏に、その率直な『創価学会・公明党観』を聞いた。
─ まずズバリお聞きします。公明党とはどのような存在だと思っていますか。
白川
「宗教教団・創価学会の政治部」でしょう。これは私の特別な認識ではなく、多くの日本国民が感じていることだと思いますよ。ただ、公明党自身はそのような見解を否定していますがね。「創価学会は公明党の一支持団体に過ぎない」というのが彼らの見解です。しかし、それを文字通りに受け止めている国民がどれほどいるのだろうかとは思いますが。
─ 公明党という、そのような政党が存在し、今や与党の一角として国政を動かしている事実に関し、日本国憲法の定める「政教分離」の観点からどのように感じますか。公明党自身は「政教分離とは国が宗教に介入することを禁じる規定であり、宗教団体の政治活動を禁止するものではない」と主張していて、これは幸福の科学を母体とする幸福実現党とも共通する見解なのですが。
白川
政教分離は日本国憲法の第二十条で定められているものですが、その条文を確認しておきましょう。第一項に、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と書いてある。問題は、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」の部分をどう解釈するかでしょう。そしてこれは、やはり宗教団体が組織した政党が与党となり、内閣に閣僚を送り込むような事態にストップをかけるもの、と読むのが自然なのではないでしょうか。
─ なるほど、白川さんはそうした観点から、公明党の存在を長年問題視してきたということですね。
白川
いえ、率直に告白しますが、それは違います。「公明党は創価学会の政治部に過ぎない」という認識は持ちながらも、たとえば1964年の同党結成直後から、政教分離などの観点でその存在を真剣に問題視していたような政界関係者は、私を含めてほとんどいませんでした。それは結局、結党から長い間、公明党は少数野党でしかなかったからです。国政に具体的かつ大きな影響力をおよぼす存在でもなかった。しかしその雰囲気を急変させたのが、94年に起こった「新進党」の結党でした。
─ いわゆる「非自民勢力」の結集を目指し、小沢一郎氏や海部俊樹氏らが中心となってつくられた新党ですね。新生党や日本新党、民社党などが参加したほか、公明党も分党して合流します。
白川
1995年7月の参議院選挙で初めての国政選挙に挑んだ新進党は、比例代表区の得票数で一位となるなど、大変な躍進を見せます。その要因の一つに、創価学会・公明党による組織ぐるみの新進党支援があったことは明々白々でした。公明党はすでに細川護煕政権(93年)や羽田孜政権(94年)に閣僚を送り込むことをしていましたが、この新進党の躍進を前に、「公明系勢力はもはや無視できる少数野党ではない」「日本の政教分離原則が危ない」という真剣な憂慮が、政界にも急速に広がっていったのです。言論界からも声が上がりました。言論誌「諸君!」(文藝春秋)の95年12月号に載った、政治評論家・俵孝太郎氏の論文「新進党はやはり創価学会党だった」は、その象徴でした。
◇─ 公明勢力との異様な選挙戦
─ 翌1996年の10月、第一次橋本龍太郎政権下での解散にともない、衆議院議員選挙が行われます。それまでの中選挙区制に代わり、初めての小選挙区比例代表並立制による選挙。マスコミは自民党と新進党の対決という側面を大きく取り上げ、「遂に日本で二大政党制による政権選択選挙が行われる時が来た」という雰囲気を醸成します。
白川
私はすでに1994年、当時同じ自民党の国会議員だった亀井静香氏らと、「憲法20条を考える会」という党内勉強会を起ち上げていました。その会のテーマとはつまり、政教分離とは何なのか、そして公明党という「創価学会の政治部」が与党として権力を握り、政教一致体制が構築されるのを許していいのかを考えることでした。96年の衆院選とは、このテーマを全国民に判断してもらうものとも位置づけられると、私は考えていました。そこで当時の自民党・加藤紘一幹事長の下で、私は党総務局長(現在の選挙対策委員長)に就任し、全国の選挙区を回ることになったのです。
─ その選挙戦を通して見た、公明系勢力の印象とは。
白川
異様でしたね。自民党の候補が街頭演説の準備をしていると、明らかに創価学会関係者と思える人々が、殺気だった雰囲気で演説カーを取り囲んできたり。いま思い起こしても、非常に苦しい選挙戦でした。しかし選挙戦の結果は、自民党の勝利でした。当時の衆議院の議員定数は500でしたが、自民党の議席は選挙前の211から239に増えました。当時連立を組んでいた社民党は15、新党さきがけは2で、この連立与党で256の過半数を制することができました。一方、新進党は選挙前の160議席を4つ減らして156。勝因はいろいろでしょうが、その中の一つに、「創価学会の支配する宗教政権はイヤだ」という有権者の判断があったのは間違いないと思います。
─ しかしその後の政界の流れを追いますと、1997年の年末に新進党は分裂・解散。翌98年に公明党が再結成され、99年には社民・さきがけとの連立を解消した自民党と連立を組むという事態になるわけです。
白川
先ほど申し上げたように、1996年の衆院選とは、本当に苦しい戦いでした。多くの自民党候補にとって、あれほど苦労した戦いは過去なかったのではないかと思います。「われわれは今後もずっと公明党を向こうに回して、苦しい選挙戦を展開していかなければならないのか」という不安感が、自民党内に選挙終了直後から漂い始めた。それが「だったら公明党との関係を修復する道はないのか」という声に変わるのに、そう時間はかかりませんでした。そうしたことを最初に公然と唱え始めたのは、98年に橋本龍太郎総理から政権を引き継いだ、小渕恵三氏とそのグループだったと記憶しています、そして99年10月、その小渕政権に加わるという形で、公明党は自民党と連立。現在に至るまで、その協力体制が続いているわけです。
─ たとえば「憲法20条を考える会」などの中から、その流れに対抗しようとする動きは出なかったのですか。
白川
当然、私や加藤紘一氏などは、自公の連立などとんでもないという考えでした。当時、はっきりと反対も口にしています。しかし政治家とは結局選挙のことを考えてしまうのか、自民党議員の大半は、自公路線に雪崩を打って傾いていったのです。「憲法20条を考える会」の活動も、次第に不活発にならざるをえなくなっていった。私は2000年を最後に国会議員としての活動を終え、自公連立路線にあくまで抗議するという意味で、01年には自民党員もやめました。
◇─ 連立による自民の変質
─ その後の自民党を見ていてどうですか。
白川
自民党は変わりましたね。端的に言うと、リベラルさがどんどん失われている。リベラル的なものに対する嫌悪感を、時に公然と口にする安倍晋三氏が総裁に二度も選ばれることなどは、その象徴でしょう。自民党は「自由民主党」と言って、その党名の英語表記は「Liberal Democratic Party of Japan」なんですよ。リベラルが嫌いな人が、なぜそんな党の総裁をやっているのか。
─ しかし公明党は自公連立の中で、そうした自民の保守・右派的な性格の「ブレーキ役」を務めていると主張していますよね。実際、公明党の政策とは結党以来、憲法擁護、平和主義といったリベラル的なものです。
白川
ですが結局、公明党はイラク特措法にしても集団的自衛権にしても、自民党の出す右派的な政策に賛同し続けている。もちろん、そいうした法案などの成立前には、ちょっと抵抗のポーズを見せるなどのことをしていますがね。これは見方を変えれば、自民党の右派的な政策を、公明党がリベラルを装いながらオブラートにくるんで通しているという風にも取れる。
─ 自公連立政権は、日本からリベラル的なものを次々に奪い去っているということですか。
白川
そういうことです。公明党は「憲法擁護」と口では言うわけですが、日本国憲法の根幹とは何なのか。一般に「基本的人権の尊重・国民主権・平和主義」の三原則が言われるわけですが、それに勝るとも劣らない精神は、「これからの日本は自由主義(リベラリズム)で行くんだ」という宣言だったと思うんですよ。だからこそ、日本国憲法には表現の自由や職業選択の自由、学問の自由など、さまざまな自由の保障が盛り込まれている。中でも自由主義社会において、思想・良心の自由、および信教の自由というのは、これは一丁目一番地であるべきなんです。政教分離を定めた憲法20条というのは、その意味でも重要なものなんです。そして公明党とは、その憲法の根本精神に挑戦しようとしている政党だとも言えるわけです。
─ ただ繰り返しになりますが、公明党とは政策的な面で、リベラル政党とも見られているわけです。
白川
リベラリズムというのは、個人の自由を最大限に保障しようという考え方です。創価学会・公明党という組織が、内部で自由闊達に議論ができて、多様な異論を許容しているようなところに見えますか。また、そんな組織であると思っている国民がどれほどいるでしょうか。多くの人は、そういう自由とは非常に遠い組織であるという風に感じていると思いますよ。
─ そして自公政権は、国民の自由の幅を狭めていると。
白川
その通りです。先ほど言った、イラク特措法や集団的自衛権といった問題だけではない。秘密保護法など、まさに国民の自由を制限する法律ですし、また最近「テロ対策」などという理由で、国民の自由な行動に多くの制約を課そうとする動きが随所で見られます。これらは自公連立の中で、急激に加速した流れです。自公連立にリベラルな気風は感じられません。また自公連立を許容する人たちというのは、知らず知らずのうちに、そうした毒を飲んでしまっていると、私は思っています。
─ 手厳しい批判ですね。
白川
これは私個人が勝手な難癖をつけているわけではないんですよ。1969年、まだ公明党が結党されて間もないころ、その脅威というものをまともに考える政界関係者も少なかった時代に、政治評論家の藤原弘達氏が「創価学会を斬る」(日新報道出版部)とうい学会批判本を出しました。当時、結構な話題を集めた本だったのですが、私自身は「そんな考え方もあるのかな」程度にながめていた。しかし今読み返すと、非常に鋭いことが書かれてあるんですよ。代表的なものとして、この本の終わりの方に書かれている、ある文章を読み上げてみましょう。
「公明党が社会党と連立政権を組むとか、野党連合の中に入るというようなことは、まずありえないと私は考える。その意味において、自民党と連立政権を組んだとき、ちょうどナチス・ヒトラーが出た時の形と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における宗教的ファナティックな要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁体制を安定化する機能を果たしながら、同時にこれを強力にファッショ的傾向にもっていく起爆剤的役割として働く可能性も非常に多くもっている、そうなったときには日本の議会政治、民主政治もまさにアウトになる。そうなってからでは遅い、ということを私は現在の段階において敢えていう。それがこれだけ厳しく創価学会・公明党を斬らざるをえない問題意識なのである」
と。私は、いまの日本はこの藤原氏の指摘の通りになっていると思います。藤原氏も今は故人です。ですから私は、なおのこと自公連立の問題を、強く指摘し続けていきたいのです。
*本誌では白川氏への取材依頼と並行して、公明党の役職者に対してもインタビュー取材を申し込んだが、「スケジュール上の都合」を理由に拒否された。