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「憲法二十条を考える会」の結成と顛末
この小論は、拙著『自自公を批判するー政教分離原論』からの抜粋(第2刷203頁)です。拙著をお持ちでない方も、また手にしにくい方もいらっしゃると思いますので、ここに掲載します。政治家の話というのはいつもこんなものだということになれば、政治家を信頼せよという方が無理でしょう。でも、政治家みんながみんなこうだとはどうか思わないで下さい。いくらなんでも、これはひど過ぎる部類のものです。ですから、自自公連立ー自公保連立は国民の評価がどうしても得られないのだと思います。
「憲法二十条を考える会」の結成と顛末 自由主義者の言動は、本質的に自由だと思います。しかし、自らの言動の責任は自らが負うということが、自由主義者の本質的な倫理だと私は思っています。 平成五年の末か六年の初めに、亀井静香代議士が奔走し、自由民主党所属の国会議員によって「憲法二十条を考える会」が設立されました。私は、当時、社会党代議士であった伊東秀子さんや金田誠一さんなどと「一・一ライン」と呼ばれる強権政治との戦いに没頭していました。したがってこの会の設立にはほとんど関わっていません。私は、親しかった亀井代議士に誘われて、助っ人的に参加しました。 平成六年六月三〇日自社さ連立の村山内閣が成立し、亀井代議士は運輸大臣に就任しました。政教分離を厳しく追及し、細川・羽田内閣を厳しく攻撃してきた「憲法二十条を考える会」の会長のまま閣僚をつとめるのはいかがなものかということから、亀井代議士の要請により私は「憲法二十条を考える会」の会長代理をつとめることになりました。そのとき、この会は亀井代議士が中心となって設立したものであるから、あくまでも亀井代議士が大臣をしている間私が亀井代議士の代役を引き受けるだけであり、大臣の職を解かれたらまた会長に復帰してもらうことが条件でした。平成七年八月の内閣改造により亀井代議士は運輸大臣を辞めたので、約束通り会長に復帰してもらいました。 しかし、一年間「憲法二十条を考える会」の代表職をつとめた関係上、その時にお付き合いした宗教団体や関係者と今日まで交流は続いております。また仮にも一年間代表職をつとめたものとして、その責任は私自身において負わなければならないし人間として全うしたいと思っています。現在「憲法二十条を考える会」は休眠状態というより解散状態にあるといったほうがよいのでしょう。少なくともこの二年間くらい、総会などをやっていません。自公連立が問題とされた平成一一年中も会合は開かれていません。 「憲法二十条を考える会」は、細川・羽田内閣の打倒には大きな役割を果たしました。自社さ政権をつくるうえでも一つの役割を果したと思います。また新進党との戦いにおいても大きな役割を果たしました。しかし、平成一一年一〇月自自公連立政権が誕生しましたが、自公連立についてこの会として議論したことも問題としたこともありませんでした。日本の政治で大きな役割を果たしてきた議員連盟であるだけに、このことは悔やまれてなりません。 私たちは、この轍を踏まないためにも「憲法二十条を考える会」ではなく、平成一二年二月「政教分離を貫く会」を設立しました。歴史を二度と繰り返さないためにも、「憲法二十条を考える会」の主要文書を「歴史上」の記録としてここに掲載します。
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白川勝彦OFFICE
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