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HOME > 自薦論文集 > インターネットと私

インターネットと私─Webサイトを開いて満5年

1. Webサイトを開いた理由

私がWebサイトを設けたのは1999年12月1日でした。わが国ではWebサイトのことをホームページと呼ぶことが多いのですが、これはわが国だけです。世界的にはWebサイトと呼んでいます。これからインターネットについて述べようとするのですから、用語は正確にいった方がいいと思います。はじめての方にはなじみ難いとは思いますがあえてWebサイトといいます。なぜならば、インターネットは全世界に向って情報を発信し、世界中の情報を得ることができるのすから、世界的に通用する言葉を使った方がいいと思うからです。

私のWebサイトには、本にすれば1万頁ものいろいろな記事や論文や随想がすでにあります。そして毎週のように新しいものが増えています。インターネットでこれらはすべてみれます。しかし、膨大なものですからどこに何があるか分かりやすくしておかないと読者はどこからみたらいいか迷ってしまいます。それが書いてあるのをホームページといいます。いってみれば、本の表紙と大見出しをいっしょにしたようなものです。ですから、インターネットであるWebサイトをみようとするとき、普通ホームページからみます。でもどうしてもホームページからみなくても、いいのです。

私のWebサイトで一番読まれているのは、永田町徒然草という政治的随想です。週に1〜2回くらい書きつづってきました。5年で240回くらいになります。私のWebサイトの常連さんなどは、直接これだけみる人がかなりいます。ホームページなどみなくても白川のWebサイトはみている人がかなりいるのです。Webサイトにはホームページがありますが、ホームページをみなくてもWebサイトはみれるのです。ですから、Webサイトのことをホームページというのははっきりいって間違いなのです。こういう間違いや日本だけでしか通用しないことが日本のインターネットの世界にはこれ以外にもかなり多いのです。ちなみにWebサイトとは、Web=クモの巣・クモの巣状のもの、Site=用地・場所です。直訳すればくもの巣状になっている場所ということでしょうか。実態をある程度いい表している言葉だと思います。

前置きはこの位にして、1999年の秋ころ私がWebサイトを開くことを決意したのは、栗本慎一郎代議士(当時)の勧めでした。そのころ、自民党と公明党との連立が党内でも国民的にも大きな問題となっていました。そのことについて本でも出版しようと考え栗本代議士に相談したところ、いま現に動いている政治問題について本を書いても、タイムラグがかならず出てくるので、Webサイトで問題を提起する方がいいとのアドバイスをもらったのです。私は郵政関係の仕事を長くやってきたので、インターネットのことはだいたいは知っていたのですが、インターネットそのものは、見たことも触ったこともなかったのです。

その理由はいたって単純です。私はキーボードというものに触ったことがなかったからです。私の事務所にはワープロを打てる秘書はいっぱいいました。ですから、キーボードに触る必要はなかったのです。でも、キーボードに触らないと、インターネットでWebサイトを見ることも、これに参加することもできませんでした。私はインターネットの埒外にいたのです。

2. ピアノとタイプは駄目

インターネットを考え出したアメリカでは、タイプを打つことはごく一般的なことです。しかし、日本ではタイプを打つことは必ずしも一般的なことではありません。私たち日本人がインターネットに参加する上で、キーボードが障碍として立ちはだかっています。ですから、キーボードを使わなくともタイプを打てるような努力がなされていると聞いていますが、キーボードをいったん使えるようになると、それはかえってわずらわしいのではないかと思います。キーボードを多少使えるようになったからといって偉そうなことをいうなと怒られそうですが、多分間違いないでしょう。インターネットの世界に入るためには、多少わずらわしくとも、やはりキーボードに触れるようになるしかないのだと思います。そして、それが結果としていちばん簡単なことなのだと思います。私の経験をありのまま紹介しましょう。

Webサイトを作るために、栗本代議士から紹介されたWebマスターに最初に会ったとき、

「あなたはタイプが打てますか?」

といわれました。

「私は、ピアノとタイプライターはぜんぜんやったことがない。でもうちの事務所にはタイプが打てる秘書がいっぱいいるからいいでしょう」

と私は答えました。

「いや、あなたがタイプを打てなければWebサイトを作ってもしょせん立て看板にしかなりません。あなたは、タイプを打つ気はありますか?私が責任をもって教えますから」

と執拗にいうのです。私も頑固のところがありますから、

「いや、私はタイプはダメだ。ピアノやタイプをやる環境に育たなかったのだから仕方がないじゃないか。タイプを打てる秘書がいっぱいいるのだからいいでしょう」

というのですが、Webマスターは断固として譲らないのです。

ピアノを弾けるようになりたいという希望がないわけではありませんが、いまさらピアノを弾けるようになれるとは思えません。それと同じように、タイプを打てるようになれる自信はまったくなかったものですから、ここは私としても簡単には譲ることはできなかったのです。何度か同じようなやりとりをしていたのですが、私がタイプを練習するといわなかったものですから、Webマスターは、

「この話はなかったことにしましょう」

といって席を立って部屋を出ようとするのです。彼の態度には何の逡巡もありませんでした。

Webマスターたらんとする彼の態度は、毅然としていました。その気迫におされて、売り言葉に買い言葉という訳ではありませんが、私は、

「それなら、やるよ」

といわざるを得ませんでした。

3. 五十の手習いでタイプを始める!

私のこの言葉を聞くと彼は、改めて椅子にすわり直し、こんどは馬鹿にていねいにタイプライターがいかに簡単なものか、まるで子供にさとすように説明するのです。そうはいっても、ピアノが簡単に弾けるようにならないように、そんなに簡単にタイプを打てるようになるなんて、私には思われませんでした。でも彼は、タイプを打つなんていうことはたいしたことではないことを、くどいくらいにいうのです。

とにもかくにも、私は50半ばにしてタイプライターの練習をすることになりました。夜の会合を終えて宿舎に帰るのは、いつも11時すぎでした。バイエルよろしくアルファベットが意味もなくならんだ本を預けられ、これを打つようにいわれました。これは手の運動にはなりましたが、まったくおもしろくありません。秘書から「特打ソフト」を入れてもらって、これでちょっと腕試しをするのですが、ぜんぜんできないのです。それから、1時間もタイプを打っていると、ほんとに肩がバンバンにはるのです。これには驚きました。

私がタイプの練習をはじめて、心がけたことが一つだけあります。それは、私の政策秘書をしていた田口正比古君が以前私にいったことでした。田口君は、私が昭和54年衆議院に初当選後まもなく私の秘書になり、私を本当によく支えてくれました。まだインターネットなどない時代から大きなワープロを持ち歩き、これを駆使していました。ある時、打ち合わせをしていて、「これは大事なことであるから、ちゃんと書くように」と催促すると、

「私は書くより、ワープロで打つほうが早いんです」

というのです。

私は、タイプライターを打つことなどまったく考えていませんでしたし、その気もまったくなかったので忘れていたのですが、何かの折に田口君が私にいったことを、タイプの練習を始めたら思い出したのです。

「タイプライターは、ローマ字打ちをしなければなりません。また、ブラインドタッチを心がけないと、絶対に早く打てるようになれません」

田口君は、平成10年に大腸がんで亡くなりました。50歳の若さでした。彼を失ってから、私の政治生活は少しずつおかしくなってきました。田口君は、私の本当のパートナーでした。なんの気もなく聞き流していた彼の言葉を思い出したのは、彼が天国から私に語りかけたのだと思います。最初のうちは間違うことが多いのですが、それでも、絶対にキーボードだけは見ないようにしました。ブラインドタッチとは、キーボードをみないでタイプライターを打つことです。

ともかく、私は田口君の遺言とWebマスターの激励に支えられて、少しずつタイプが打てるようになりました。ある程度打てるようになると、こんどはおもしろくなります。半月くらいすると、文章を打つことくらいは、そんなに苦労ではなくなりました。ちょっと笑われるかもしれませんが、私がWebマスターとの約束を守ったのには、もう一つのことがありました。

当時、私は携帯電話をかなり使っていました。携帯電話に誰かを登録しようとする場合、こんな不便があります。「オ」を入力しようとして、「アイウエオ」と打ってきて、よく打ち過ごしてしまいます。そうすると小さな「ァィゥェォ」が出てきます。これをやりすごしてまた「アイウエオ」と打たなければなりません。ふたたび「オ」をやりすごすと、また9回ボタンを押さなければなりません。タイプは、打つのがどんなに遅くとも、こんなことだけはしなくてもいいわけです。「タイプはそんなに悪いものではないぞ」と思ったのです。お笑いの方も多いでしょうが、これ、くじけないでタイプをやったもう一つの理由です。

私がある程度タイプを打てるようになったころ、私のWebサイトができあがりました。すごく感じのいいホームページでした。さっそく永田町徒然草の連載をはじめたのですが、最初のうちは原稿を紙に書き、秘書に打ってもらっていました。正直なところ、なんであんなに苦労してまでタイプをしなければならなかったのかと思いました。でも、Webサイトの開設者がタイプを打てなければろくなサイトにはならないということを、そう日をおかずして私は思い知らされました。

それは、気軽なつもりではじめた「書込交流広場」というBBS(掲示板)でした。「自自公を批判する」というタイトルをつけた私のWebサイトですから、その筋からの猛烈な書込みが始まったのです。こうなると、いちいち反論を紙に書いて秘書に打ってもらう訳にはいかなくなりました。おぼつかない手つきではありますが、直接私が書き込まざるを得ません。そんなことを実際にしているうちに、タイプの方はかなり早くなりました。私がタイプを早く打てるようになったのは、この方々のおかげです。

4. 店を開いても簡単にはお客はこない

私のWebサイトは、1999年12月1日にスタートしました。インターネットについてはある程度知っていたつもりですが、Webサイトを実際に開設して、それまでの私の知識はまったくゼロに近いことを思い知らされました。私は当時、自民党と公明党の連立に反対するグループの代表格の政治家でした。そのころ、国民の間にも自民党の中にも、自公連立には強い反対がありました。私は、いろいろなメディアや集会に呼ばれて、自公連立に反対の主張をしていましたが、多くの賛同者がいました。これをもっと多くの人々に訴えるために、インターネットを利用することを考えたのです。ですから、Webサイトを開けば、それこそウンカのごとく多くの人々がアクセス(接続=Webサイトへの訪問)してくれると、単純に思っていたのです。しかし、ごく身近の関係者を除いて、一般の方々のアクセスはまったくありませんでした。

そうなんです。Webサイトを開いても、それはインターネットの世界に席をおいたに過ぎないのであって、Webサイト自身は自分から手をあげて他人に向かって発言するわけではないのです。ただ他人が注目して、お前はいったい何を言いたいんだといって、Webサイトにアクセスをしてくれ、自分の言いたいことを読んでくれれば、そこではじめて他人に自分の考えを伝えることができるのです。しかし、いいたいことがあるからWebサイトを開いたのに、自分から他人に向かって話しかけられないというのは、まったく歯がゆいことでした。これは現在でもまったく変わりありません。

Yahooに登録されれば、これを通じてアクセスがふえるという人もいましたが、登録されるまでにはかなりの日数がかかるというのです。気の短い私ですから、そんなものを待っているわけにはいきません。私は手紙や自分の後援会報で、Webサイトを開いたことを一生懸命に宣伝しました。その数は10万通くらいあったと思いますが、1日に100までのアクセスはありませんでした。私はWebサイトの宣伝の名刺をつくって、会う人会う人に渡しました。これはそれなりの効果があったと思います。数ヵ月後にYahooに私のWebサイトが登録されました。これを機にかなりアクセスがふえたことは事実ですが、それは人がいうほど多いものではありませんでした。それでもこうした努力があいまって、開設から2〜3ヵ月後には1日に100〜200のアクセスが安定してあるようになりました。

私はそのころ、けっこういろいろなマスコミに出る機会がかなりありました。そうすると一時的にちょっとアクセスはふえるのですが、そんなに多いものではありませんでした。これは意外でした。このようにアクセス数ばかり気にする私をたしなめたのが、Webマスターでした。彼は、アクセスなどあまり気にせずに、質の高いWebサイトを作っていきましょうとだけしかいわないのです。しかし、選挙をやる政治家としては、やはりアクセスのことを気にせずにはいられませんでした。

5. 「荒らし」との壮絶なバトル ── 最初のブレーク

私のサイトがある程度ブレークしたのは、Webサイトの書込交流広場というBBS(掲示板)に、前述したように創価学会関係者と思われる筋からの猛烈な書込みが始まったのがきっかけでした。私は自民党と公明党との連立に主として憲法20条の観点から反対する論陣をはっていました。これについての読者の皆さんの意見を書き込んでもらったりして、議論を深めるためにBBSを最初から作っていました。これこそ、双方向のインターネットの魅力と考えたからです。最初はなかなか書込みはありませんでした。それでも1ヶ月もするとかなりの書込みがあるようになりました。そして、それは議論をいろいろな観点から深める、質の高い、なかなかいい書込みでした。

Webサイトを開いて2ヶ月少し過ぎたころでしょうか、それまでの論調とはまったく異なる書込みが始まりました。そしてそれは、私や私の考えに同調する人たちの意見に難癖をつける、執拗な書込みでした。議論を深めるというより、私たちの意見を封殺しようとするものでした。私自身も一瞬ひるむような、とげとげしい強烈なものでした。ですから、気軽に書込みをする方々にとっては、かなり怖いと感じられたと思います。BBSの世界では、このような書込みが「荒らし」と呼ばれていることを初めて知りました。それは、大なり小なりBBSにはつきものなのだそうです。「あまり気にすることはない」とWebマスターにはいわれましたが、何らかの対応をしないと、一般の方々の書込みがなくなるおそれがありました。また、私自身の論調が自信がないというという印象を読者に与えてしまいかねませんから、ある程度の反論はせざるを得ませんでした。そのやりとりは、私自身がBBSに直接書き込まざるを得ません。ここで、私がタイプを打てることが武器になりました。

いわゆる荒らしという書込みにレスをつけるというのはたいへんなことでした。こういう問題にくわしい数人の方々も、反論を書き込んでくれました。その壮絶なバトルを多くの人々がみてくれました。これは当時のインターネットの世界で、ある程度話題になったのでしょう。私のサイトへのアクセスは1日に300〜400くらいになりました。これは、当時の政治家のWebサイトでは3本の指にはいるものでした。これに元気づけられて、永田町徒然草の更新も週に2〜3回くらいになりましたし、BBSへの書込みも2〜3日に1回はかならずしました。私のタイプのスピードも、必要に迫られてかなりはやくなりました。

6. 全国区のWebサイトに

次にブレークしたのが、忘れもしません2000年3月20日付けのほとんどの新聞が一面トップで報じた、私の秘書の「交通違反もみ消し事件」でした。この時は、1日に2000を超えるアクセスがありました。この人たちには、この件に関する私の考えを直接伝えることができました。しかし、新聞やテレビの集中砲火的報道に対してまったく無力でした。ただ、このつらい事件を機に、私のWebサイトが一躍全国区となったことだけは確かです。これはその後、私が政治的論陣をはる上で、かなり役立ちました。私のサイトは、国会議員のWebサイトのアクセスランキングで、いつも一番か二番目にありました。ただ、その代償がきわめて大きかったことはいうまでもありません。

私のWebサイトは、開設から半年も経たない2000年5月24日に、ホームページのアクセスカウンターが10万を超えました。その日に書いた永田町徒然草No.55に次のような一節があります。

「いろーんな波が押し寄せてきた。それでも舟は進んでゆく。向こうの岸に着くまでは、自分の腕でしっかりと漕いで行こう」── 美空ひばりの35周年記念リサイタルでの語りです。いい言葉と思っています。

目前に控えた新潟6区の私の戦いが全国から注目され、多くの方々が私の勝利を祈っていることを、私はWebサイトを通じて肌で感じました。私は死力を尽くして戦いました。1ヵ月後に衆議院選挙が行われ、私は落選しました。しかし、落選が決まったその瞬間に、私は翌年に行われる参議院選挙に新党を立ち上げて、比例区で戦おうと決意していました。ですから、このことは明言しませんでしたが、政治的意味のあることを発信しつづけました。眼光紙背に徹すで読んでいただければ、私がこのような決意でいたことを察していただけたと思います。

参議院選挙への起意の表明は、11月初旬には正式に記者発表できることろまで準備していました。新聞発表の日にちまで決まっていたのですが、その直前に加藤の乱がおこりました。政治の大ニュースとなりました。加藤先生のWebサイトのアクセス数は、1日に数十万単位でありました。私が加藤氏の側近ということはかなり知れわたっておりましたので、私のサイトへのアクセスも多くありました。私のWebサイトを通じて、私は加藤氏の行動を全面的に応援しました。しかし、結果はご案内のとおりでした。痛恨の極みでした。私は数ヶ月前の自分の落選よりも大きなショックを受けました。日本の政治から、リベラルの灯が消えました。

7. それでも希望をもって

2001年2月4日、読売新聞一面で、私の参議院選挙への出馬が報道されました。私はWebサイトを通じて新しい政治活動を始めました。参議院比例区の選挙こそインターネットが本領発揮してくれるものと信じて、かなり力を入れてやりました。ホームページも新しくしました。この参議院選挙では、Webサイトはかなり大きな役割を果たしてくれました。半年で50万くらいのアクセスがありました。しかし、結果からみると私が期待したほどのものではありませんでした。もしアメリカや韓国のようにインターネットが普及し、かつ、政治の場面でもっと大きな役割が果たしてくれるようでしたら、私はきっと当選していたでしょう。

残念ながら、わが国においては、政治や選挙の現場でインターネットは、まだまだ世間でいわれているほど実際にはみられていないのです。これがインターネットの可能性を信じて、まじめにやってきた者の実感なのです。だから、私は世間がいうほど楽観的なことはいいません。でも、そこに少しでも可能性があると期待し、それを乞い願っているからこそ、まじめにWeb活動をしているのです。もっとも、一時的には絶望して休んだときもありますが…。一昨年は、新潟5区で衆議院選挙に立候補しました。この時も、全国の私の支持者の皆さんに、私の思いや戦況を伝える役には立ちました。

「いろーんな波が押し寄せてきた。それでも舟は進んでゆく。向こうの岸に着くまでは、自分の腕でしっかりと漕いで行こう」

昭和の歌姫といわれた美空ひばりのこの言葉。2000年5月にあえてこれを引用したのは、私自身が政教分離の必要性を貫けば、複雑な運命に翻弄されることになるかもしれないと、何となく予感していたのかもしれません。美空ひばりも、歌以外のことで何かと翻弄されました。でも美空ひばりは、最後までやはり美空ひばりでした。私のもっとも好きな歌手です。私もいろんな波に翻弄されました。でも、私は政治家であることをやめていません。私の志を理解し、これを支持してくれる人がいる限り、私は政治家として生きなければならないと固く決意しています。私のWeb活動は、私の志を天下に明らかにする大切なツールなのです。それでいいと思っていますし、それ以上のことは、現状ではあえて期待しない方がいいと思っています(ちょっと醒めすぎているでしょうか)。

その後は以前ほどまめに更新をしませんでしたが、それでも私のWebサイトを多くの方々がアクセスしてくれいます。私のホームページにあるアクセスカウンターは、116万を超えています。私のWebサイトの訪問者でホームページからアクセスする人の比率は、全体の3分の1です。ですから、開設以来まちがいなく250万回以上私のWebサイトはみられています。凄いことだと思います。これだけ多くの方々にみられているいることは、私の誇りであり、励みです。いつも緊張感を持っています。しかし、このようにアクセスしてくださる方々の期待に応えるだけの内容があるかに思いをいたすと、忸怩(じくじ)たるものがあります。

今年5月1日に行われる合併して新しく誕生する十日町市の市長選に向けて、いま私は全力で毎日を生きています。私の政治生活の中でも、いちばん燃えて充実していた日々を送っています。そのために、あまり更新できないのが残念です(便りのないのは良い知らせと受けとめてください)。人口6万5000の市ですから、全国的にみれば大きい市とはいえないでしょう。でも私は全国的にみても価値や意義のあることをしていきたいと思っています。「一隅を照らすもの、これ国宝」という言葉もあります。私がいま挑戦していることは、意味のあることと信じています。ですから、できるだけ時間をみつけて、思うこと・感ずることを書き連ねていきますので、ときどきアクセスしてください。

白川勝彦

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