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月刊日本 2007年6月号
自公“合体”政権批判(3)
“政権党でいたい”という浅ましい醜悪な連立
元衆議院議員・弁護士 白川 勝彦
小選挙区制でのはじめての総選挙
平成8年10月8日政治改革ということで決まった小選挙区制によるはじめての衆議院議員総選挙が行われた。自民党は橋本龍太郎首相を戴して、加藤紘一幹事長を先頭に戦いに突入した。自民党は300の小選挙区のすべてに公認候補者もしくは推薦候補を擁立した。
自民党が推薦した他党の候補者は10名前後であった。それは自社さ政権の与党であった新党さきがけと民主党と社民党の公認候補であった。民主党と社民党の公認候補者を推薦したのは、社会党が分裂し、民主党と社民党となったためであった。
自民党は300の小選挙区に候補者をすべて擁立できるほどの力は本当のところなかった。だから社会党と新党さきがけの候補者がいるところでその候補者を推薦することは十分できたのだが、社会党や新党さきがけの候補者の多くは自民党の推薦をそんなに希望しなかった。自民党公認とか自民党推薦というのは、そんなに錦の御旗にはならなかったからである。これは自民党に対する国民の感情が決してかつてのようなものでなかったという証左であろう。私が選挙の指揮を執った総務局長時代を通じて自民党の政党支持率は、30パーセントをちょっと超える状態であった。
自民党に対する政党は、何といっても新進党だった。新進党は250をちょっと超える小選挙区に公認候補者を擁立していた。また新進党は、自民党に勝って新進党内閣を作ることを明言していた。総選挙が政権をかけた選挙だとしたならば、自民党は政権政党であったので、過半数を確保して政権を組織することを当然のこととしていた。
新進党も250近くの小選挙区に候補を擁立し、新進党内閣を作ることを訴えていた。これに対して鳩山由紀夫氏と菅直人氏を共同代表とする民主党は143、土井たか子氏を党首とする社民党は43、武村正義氏を党首とする新党さきがけは13の小選挙区しか候補者を擁立していなかった。
“新進党は創価学会党である”というキャンペーン
個々の小選挙区では、民主党や社民党や新党さきがけの候補者が最強の候補者だったところもあるが、全国的にはまさに自民党と新進党の政権をかけた総選挙であった。200前後の小選挙区で自民党候補と新進党候補が、まったく互角の激しい選挙戦を展開していた。自民党候補者の売りは、たとえ連立政権であっても政権党であることだった。
もうひとつの強力な武器となったのが、“新進党は創価学会党である”というキャンペーンであった。創価学会に対する不信感や違和感は国民の中に広くあった。新進党の最も中核にあって強力な選挙母体をもっている創価学会の存在は、“新進党は創価学会党である”というキャンペーンの真実性を国民に強く印象付けた。
創価学会は新進党にとって力強い最大の味方であったが、国民の半数以上が創価学会に対して不信感や違和感をもっている時、小選挙区の選挙においてはそれが仇ともなったのである。
しかし、忘れてはならない重要なことがある。それは、選挙を戦ったのは自民党と新進党だけではなかったことである。民主党や社民党や新党さきがけという政党も多くの選挙区に候補者を擁立したことであった。これらの3党は与党として選挙後自民党との連立政権に参加すると明言しなかったが、自民党に対して野党として対峙するとも主張しかなかった。“ゆ”党なる言葉も流行った。少なくとも反自民とはいわなかった。それに対してこれら3党は、アンチ新進党であった。自社さ政権の残存効果である。
一方自民党は、たとえ過半数をとっても民主党や社民党や新党さきがけとの信頼関係を引き続き維持すると明言した。実際問題として自民党が過半数を超えることは容易ではなく、また自民党に対する不信感が国民の中に残っている状態で自民党単独政権の必要性を強調してみてもあまり効果がないことを自民党は十分に知っていた。新しく生まれ変わった自民党と謙虚さを強調することが、自民党の広報戦略であった。
新進党の解党
平成8年10月20日第41回衆議院議員総選挙が行われた。結果は、自民党239議席・新進党156議席・民主党52議席・共産党26議席・社民党15議席・新党さきがけ2議席・民改連1議席・無所属9議席であった。自民党は過半数を獲得できなかったが、相対的にはダントツの第一党となった。新進党は156議席しか取れず、またその他の政党と連立を組むなどという友好的関係もなかったので、政権獲得を訴えていた政党としては惨敗といえる。
平成8年11月7日首班指名選挙が行われた。橋本龍太郎氏が社民党や新党さきがけの協力を得て内閣総理大臣に指名された。
自民党は選挙期間中も友好的だった野党と連立を組むといっていたので、直ちに民主党や社民党や新党さきがけに連立して政権運営にあたることを申し込んだ。その結果、社民党と新党さきがけは閣外協力をすることになった。閣僚を出さない連立である。自民党は参議院で過半数なかったので、閣僚を抱えることを否定はしなかったが、両党は議席が大幅に減少したことを理由に閣僚を出すことを要求しなかったたのである。前にも述べたが、このあたりにも両党の政権に固執しない体質が窺われる。
政権獲得という観点からみたら総選挙で惨敗した新進党は、そのことが原因となって平成9年12月解党した。新進党の解党を機に自民党に入党する者が続出し、その結果自民党は衆議院で過半数を超えることとなった。万事が順調にみえた自民党ではあったが、平成10年7月に行われた参議院選挙で惨敗した。
平成10年参議院選挙の本当の敗因
この参議院選挙の敗因は、前年の国民負担増(消費税率引上げ等)・それに伴う景気の後退・失業率の上昇などといわれている。また投票直前の橋本首相の減税に関する発言が二転三転したことも有権者の不信を招いたともいわれている。私はこの参議院選挙を加藤幹事長の下で団体総局長として候補者を擁立しいる自民党の友好支援団体との折衝に当たっていた。世論調査や団体の動きなどから惨敗するような兆候はまったくみられなかった。
いま冷静になって考えると、複数区に目一杯候補を擁立して自民党単独で参議院の過半数を強引に獲得しようとしたことが、“不遜な自民党の再来”と有権者の目に映ったのが最大の敗因だったのではないかと思っている。自民党は国民からみたらまだ執行猶予中の状況だったことを忘れてしまったのである。
橋本首相と加藤幹事長が引責辞任した。後継総裁を決める選挙が小渕恵三・梶山静六・小泉純一郎の三氏で争われ、小渕氏が総裁となった。衆議院は過半数を優に超える議席があったのだが、参議院では自民党は過半数を割っていた。折りしも長期信用銀行をはじめとする金融機関が破綻し、金融システムを守るためにどのような法律を作るか国会で小渕内閣は立ち往生した。このころから小渕首相とその周辺は、公明党との連立を模索するようになった。
国会対策上、参議院で過半数がないということは内閣としては辛いところではある。しかし、それまでも自民党が参議院で単独で過半数がない状態は何度もあった。参議院で過半数がないということを理由に連立政権が誕生したことはそれまでになかったことである。政権選択は、衆議院で決せられる。現に2007年の夏の参議院で自民党と公明党の与党の合計議席が確保できなくても、安倍首相は責任をとって辞任する必要がないと自民党の有力者が現に発言しているではないか。小渕首相やその周辺が公明党との連立を考えたのは、別の理由でありもっと根が深いところにあると私は思っている。
創価学会・公明党との阿吽の連携関係
小渕首相は羽田・小沢氏などが脱退し分裂した経世会の後身である平成研究会(小渕派)の会長であった。経世会の前身はいうまでもなく田中派である。田中派と創価学会・公明党には特別の関係があったことは広く知られている。その端は、藤原弘達氏の著書『創価学会を斬る』をめぐる創価学会の出版妨害事件にある。当時自民党の幹事長だった田中角栄氏は、国会対策の上で創価学会・公明党に大きな貸しを作ったといわれている。
公明党はすべての選挙区(当時は中選挙区であった)に候補者を擁立していたわけではない。公明党が候補者を擁立していない選挙区で、田中派の候補者は創価学会・公明党の支援を得ることにより田中派は膨張していった。田中派と創価学会・公明党は、阿吽の呼吸で連携し合っていたのではないか。そのことは創価学会・公明党の地盤が強い、従って公明党が候補者を擁立する東京都や大阪府などでは、田中派の国会議員が非常に少なかったことからも窺えるのである。
平成8年の総選挙は、新進党と正面から戦わなければ自民党の勝利はあり得なかった。新進党と正面から戦う以上、憲法20条の1項の「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。」という政教分離の原則を強調し、新進党の勝利は創価学会の政権参加となることを批判しなければ戦いにならなかった。
自民党は亀井静香組織広報本部長を先頭に徹底的に政教分離を訴え、創価学会の政権参加を批判した。しかし、幹事長代理で選対総局長であった野中広務氏は、一貫してこの路線に消極的であった。野中氏は小渕派を代表して自民党執行部に席をおいたのだ。形式上は選対総局長の席にある野中幹事長代理のこのような態度は、創価学会の政権参加を批判するキャンペーンを行う上で非常にやり難かったことは確かであった。
毒消しとして自由党との連立を先行させる
小渕内閣でその野中氏が官房長官に就任した。小渕首相の方から働きかけてのか、創価学会・公明党の方から仕掛けたのかは定かでないが、野中官房長官の誕生により公明党との連立の機運は急速に強まっていった。小渕首相は公然と公明党との連立を口にするようになった。
平成11年9月自民党の総裁選挙が行われた。この総裁選挙には加藤紘一前幹事長と山崎拓前政調会長(いずれも当時の呼称)が立候補した。加藤氏も山崎氏も公明党との連立に反対であると発言した。この総裁選挙で加藤氏は予想以上に得票をしたといわれたが、それは公明党との連立に疑問をもつ者から派閥を超えて支持を得たからであった。加藤氏の総裁選挙を一生懸命に応援した者として、私は自信をもってそのことを証言する。しかし、総裁選では小渕首相が大勝した。それは自民党の派閥力学からいえば当然の結果であった。
小渕首相は、総裁選挙で公明党との連立の支持を得たとして、一挙に公明党との連立をした。しかし、平成8年の総選挙で自民党が創価学会・公明党と激しい戦いを展開したことを国民はまだ忘れてはいなかった。世論調査などでは、公明党との連立に反対との意見が圧倒的に多かった。小渕首相とその周辺は、公明党との連立だけでは世論の反発が強すぎると考えて、自由党(小沢一郎党首)との連立を先行させることにした。
政党として筋を通したか否かが有権者の判断材料
自自連立に公明党が加わったのは、平成11年10月5日であった。公明党との連立では忘れてはならないのが、地域振興券の発行である。地域振興券は、平成11年4月1日から同年9月30日までわが国で流通した商品券の一種である。なんともおかしな政策だが小渕内閣は総額6000億円もの掴み金を支出したのだ。自民党からも「バラマキ政策」だと強い批判が挙がったが、公明党の強い要望により導入された。当時内閣官房長官であった野中広務が「地域振興券は公明党を与党に入れるための国会対策費だった」と後に話したと伝えられている。多分そのとおりであろう。
このバラマキ体質こそ、自公連立の最大の特質である。自由党との連立では、かなり詳細な政策協定が結ばれた。そして現実にかなり実施された。平成12年4月生真面目な小沢自由党党首が、自民党と自由党との政策協定の全面実施を迫ったことが原因で、自由党は連立から離脱することになる。その心労もあって小渕首相は病気で倒れ、不帰の人となった。
小渕首相が死亡したとき、自民党の一部から“小沢氏が小渕首相を殺した”という小沢悪者論が噴出した。しかし、政党の連立とはそもそも非常に緊張関係があるものである。連立というのは、下手をすればその政党に壊滅的なダメージを与えることがあるのである。小沢氏としては自由党の生死をかけた、政策協定をめぐる交渉だったのであろう。小沢氏は政策協定を蔑ろにされるくらいなら連立は自由党の利益にならないと考え、政権離脱もやむを得ないと決断したのである。
そしてこの連立離脱をめぐり自由党内でも意見が分かれ、政権離脱に反対する者は保守党を作った。自由党は分裂したのである。これは小政党であった自由党には厳しいことであった。
しかし、小沢氏の決断は、自由党の党首としては正しかったのだと私は思う。自由党が連立を離脱した2ヵ月後に、総選挙が行われた。政権から離脱した自由党は、18議席を22議席と伸ばした。一方、自由党から離脱し政権内に留まった保守党は、18議席を7議席と激減させてしまった。小沢氏は政策協定を曖昧にしたまま政権に留まっても自由党は有権者の支持は得られないと判断したのだろう。政権にいることが必ずしも選挙で良い結果をもたらすというものではない。政党としての筋を通したかどうかが有権者から判断されるのである。
政策協定の実施は、真剣勝負
このことは、翌平成13年7月に行われた参議院選挙でもいえる。自由党は4議席を獲得したが、保守党は1議席を獲得したに過ぎない。かくして自自公連立は自公保連立となり、保守党は政権与党でありながら平成15年11月の衆議院議員総選挙では4議席しかとれず、自民党に吸収されることになる。一方、自由党は平成15年の総選挙前に民主党と合併し、野党第一党としてしぶとく生き残っている。現在小沢氏は民主党の党首である。
自由党と保守党の変遷をみれば、連立を組んで政権党になることが政党にとって常にハッピーな結果をもたらすとは限らない。要は連立のあり方が大切なのである。連立の大義名分が正しければその連立がある政党に有利になることもあるし、大義名分がなければ有権者の厳しい判断によって壊滅的なダメージを受けることもある。
その判断材料になるのが政策協定の内容とそれがどのくらい実現されたかということであろう。政策協定をめぐって連立与党同士が激しくぶつかり合うのは、当然のことなのである。それは非常に緊迫したものである。自社さ連立政権ではどの党も連立離脱をしなかったが、それはあくまで結果でしかない。自社さ3党の政策協議は非常に真剣かつ緊張したものであった。
私は自社さ連立政権を作ることには深く関与したが、連立政権誕生後は衆議院商工委員長と自民党の選挙対策の重要な部署である総務局長を務めていたので、政策協議の現場にはいなかった。しかし、連立政権運営の中心にいた加藤紘一政調会長(後に幹事長)の側にいたので、政策協議の苦労はよく知っている。実際には何度も連立崩壊の危機があったのだ。
人はパンのみにて生きるに非ず
自公保連立や自公連立には、このような緊張関係があるのだろうか。自民党と公明党との間に政策協定は一応はある。自民党と保守党との間にも一応の政策協定はあった。しかし、これらの党が政策協定をめぐって自民党と激しいやり取りをしたことなど、1度もなかった。保守党の結成は、その経過からしてそもそも自民党に合流する一時的な止まり木に過ぎないものだった。だから自民党と保守党との政策協定など問題にする必要もないであろう。 自民党と公明党との連立に際して締結された政策協定となると話は違う。少なくとも自民党と公明党の成り立ちやそれまでの政治的パフォーマンスは、明らかに違うものであった。また政党としての理念や性格も大きく違うと考えられいた。そのような政党が連立政権を作る場合、国民に対してその政治的理由を明らかにする必要があるばかりでなく、両党の党員や支持者に対してもその義務があると私は思う。
先に述べたように公明党との連立にあたり、自民党は手付として6000億円の地域振興券を発行することを呑んだ。そもそも自民党にもバラマキ的体質はあったので、公明党が要求する程度のバラマキは自民党にとってそれほど痛痒を感じるものではなかったのである。
しかし、人はパンのみにて生きるに非ず、だ。両党との間には、“お金”だけでは解決できない差違や問題があった筈であった。少なくとも公明党にはどうしても譲ることのできない“何か”はあった筈だし、それがなければ長い間にわたり野党として国会にある程度の議席をもってきた政党としての存在理由を問われても仕方がないことであろう。だが、多くの国民が注視する中で、自民党と公明党が連立政権を作るにあたって緊張感のある政策協定の論議を重ねることはなかった。
自公連立の基本理念は!?
“はじめに言葉ありき”は、聖書の一節である。キリスト教とは関係ないといっても、公明党は創価学会という宗教団体と深い関係がある。公明党の幹部は、すべて創価学会員であることを認めている。創価学会の宗教的な教えがどのようなものか私は知らないが、自民党と公明党の連立に関する政策協定が“金目”に関するものだけというのでは、あまりにも寂しいだろう。
正直に告白するが、私は自民党と公明党の連立に関する政策協定など読んでいない。私は公明党の政権参加は憲法20条に違反するものと考えている。憲法違反のことを平気で行おうとする者が、どのような美辞麗句で政策協定を書いても私はそんなものを信ずるつもりがなかったからである。
自社さ連立政権の政策協定も、あらゆる問題について疑問のないように詳細に書かれたものでは決してなかった。しかし、政権運営の基本を“憲法の価値観”、私流にいわせてもらえば“リベラルな価値観”で行おうということだけは確りと合意していた。自民党の河野洋平総裁、社会党の村山富市委員長そして新党さきがけの武村正義代表の3人の政治的考えや人間性には信頼に足りるものがあった。そこのところが確りとしてから、自社さ連立政権の時代にも困難な問題がいろいろと提起されたが、けっこう上手く解決することができたのだ。
このことは実は非常に大切なことなのである。政権にとって解決をしなければならない問題は無数にある。それまで放置されてきた問題を連立に参加する政党が解決を他党に迫るということはごく普通のこととである。そこにまた連立政権の妙味もある。そのようなことに成功した場合、その政党は次の選挙で成果として訴えることができるであろう。それは否定されることではない。しかし、連立政権成立後、新しい想定していなかった問題が必ず起きる。政権を現実に運営する上でそれは避けて通れない。想定できない問題であるから、それを政策協定に盛り込むことはできない。その場合に必要なことは、連立運営の基本理念なのである。
他者には理解できない特殊な相互依存と信頼関係
自社さ連立政権も発足当時あまり評判は芳しくなかった。野合政権といわれた。公明党は自社さ政権の野党だった。公明党も他の野党と一緒に自社さ連立政権に対してそのような批判をした。自公連立もすこぶる評判は悪かった。しかし、自社さ連立政権と自公連立には決定的違いがある。
自社さ連立政権発足時には、衆議院の過半数を単独でもっていて、政権を単独で組織できる政党がなかったことである。連立政権でなければ、衆議院で過半数をもっている政権は作れなかったということである。どのような政党の組み合わせであろうが、違った政党同士が連立を組むのであるから批判はあるものである。それは細川非自民連立政権も同じであった。
しかし、自民党が公明党と連立を組んだ平成11年10月当時、自民党は衆議院で過半数を十分超える議席をもっていたのだ。連立を組まなければ政権を組織できなかった訳ではないのだ。法律を通すために必要な参議院では過半数がないといわれたが、平成元年の売上税選挙でマドンナ旋風が吹いて自民党が惨敗した選挙以来、自民党は参議院では過半数をもっていなかったのだ。だが自民党は連立政権などと決していわなかった。必要な法律は野党各党と交渉をしながら成立させていった。当時私は国会にいたが、国政上重要な法律が参議院で通らなかったために大きな支障が生じたという記憶は特にない。
小渕内閣の時代、金融不安が生じ経済が低迷していたことは事実である。しかし、連立政権をどうしても作らなければならないという必要性を国民は感じてはいなかった。だから自民党が公明党と連立を組むことに対して拒否反応が強かったのだろう。
小渕首相およびその周辺と公明党は、そもそも“はじめに連立ありき”だったのだと私は思う。それは自民党時代のかなり前から続いていた特殊な関係があったからだと私は思っている。自民党小渕派と創価学会・公明党には、田中派以来連綿と続いてきたある種の相互依存関係と他派には理解できない信頼関係がきっとあったのだろう。
このことを推測させる事実を私はハッキリと記憶している。平成13年4月の自民党総裁選挙の際、橋本元首相が敗れて小泉総裁が誕生した場合、公明党は自民党との連立そのものを考えなければならなくなると公明党幹部が発言したことである。平成12年6月の総選挙で創価学会・公明党は多くの自民党候補を推薦・支援した。そのような議員に対する明らかなプレッシャーであった。
しかし、自民党の低迷に強い危機感をもっていた自民党の党員や議員にそのようなプレッシャーは通じなかった。自民党の議員や党員は、自民党という母屋に火がついて燃えていると感じていたからである。“自民党をぶっ潰す”と叫ぶ総裁を据えるくらいの劇薬を使わなければ、その危機は超えられないと思ったのである。そしてその危機感は正解だったのである。自民党は“自民党をぶっ潰す”というトップを擁して肥大化した。見事な詐術であったが、詐術は所詮詐術でしかない。褒められることではない。
分かり難い不自然な自民党と公明党との関係
自公連立には、もうひとつ根本的問題というか疑問がある。連立政権というのは、基本的には選挙はそれぞれの政党が独自に戦い、選挙後ある政党が過半数をとれなかった場合にはじめて考えるのが普通である。過半数を得た場合でも、どの党との関係は重視するということはあろう。
平成8年の総選挙において、自民党は選挙後も社会党(選挙に突入寸前に民主党と社民党に分裂した)と新党さきがけとの連携関係を重視することを言明した。それは単独で過半数をとる態勢がなかったこともあるが、自民党に対する不信感はいまだ払拭されていないと判断した上での政治的配慮に基づくものだった。そういう理由から、自民党の候補者がいない選挙区で連立のパートナーとなる他党候補を推薦したり支援することは否定されない。
現在の自民党と公明党との関係は、これとは明らかに異なる。自民党と公明党は、文字通り一体となって全選挙区で戦っている。自民党と公明党とが相争う選挙区などはひとつもない。公明党は最初から全選挙区に候補者を擁立するつもりはない。だから公明党が自民党候補者を推薦することはあり得ることである。
しかし、公明党候補者はいるが自民党候補者がいない選挙区では、自民党支持者は自民党候補者に投票することができない。公明党候補者に投票することが自民党候補者に投票することと同じだという論理でなければこれは成りたたない。このような分かり難い不自然なことをするくらいだったら、自民党と公明党はひとつの政党になった方がいい。政党討論会などをみていると自民党と公明党の出席者は同じ与党席に座ってはいるが、その発言が大きく違うこともある。自民党候補者と思って投票してくれといわれて公明党候補者に票をいれた人は複雑な心境になるだろう。
“政権党でいたい”というのが動機と目的
公明党は“福祉と平和の党”ということを売りにしてきた。そのことは現在も変えていないようである。だが公明党はイラクに自衛隊を派遣するとき反対しなかった。イラクへの自衛隊派遣は、自民党単独では決してできなかったであろう。財政難を理由に各種の福祉は大幅に切り捨てられている。これだけは絶対に譲れない福祉政策だといって公明党が粘ったことなど記憶にない。
小泉首相の靖国神社参拝は、創価学会・公明党の主張からみたらそう簡単には譲れないことである筈だ。しかし、公明党はおざなりの反対をするだけだった。いまや自民党は創価学会・公明党の力を借りなければ、衆議院でも参議院でも過半数も取ることはできないであろう。だから公明党は連立の力をフルに利用すれば公明党の主張を自民党に迫ることは十分できるのだが、公明党にそのような気迫も気配もない。
以上いろいろな視点からみても、自民党と公明党との連立は特殊である。というより、異常である。この異常な連立を可能にしているのは、この連立が兎に角“政権党でいたい”という一点にその動機と目的があるからだろう。だからそれぞれの党のレーゾンデートルに抵触するような場合でも、ほとんど緊迫したことにはならない。見事といえば見事な連立だが、私にはそれは浅ましく見えるのである。
自公連立の根本が兎に角“政権党でいたい”というところにある以上、自民党や公明党の主張の違いはほとんど意味がない。かえって政治的問題の所在を曖昧にするだけだ。それは時には、与党の詐術ともなる。創価学会の特異な体質として、詐術を平気で用いることだと創価学会ウォッチャーは指摘している。創価学会のこの体質は、いまや自民党にも政権全体にも染み付いてきたようである。
自民党と公明党は、もう“合体”している
「最近、永田町の政治記者の間では、公明党・創価学会のことを“下駄の雪”とは言わなくなりました。雪だと暖かくなれば溶けて下駄から離れますが、公明党・創価学会は何があろうと絶対に自民党から離れない。ですから最近は“下駄の石”と言われています。下駄に挟まった石は取り外すことができない。公明党・創価学会はすでに自民党と一体化しており、離れることはないという意味です。もう“自公連立”ではなく“自公党”という一つの政党になっています。ただ、やがて“石”のほうが主人公になるでしょう。公明党・創価学会が自民党の上に立つ時期はもうすぐです。自民党は落ち目です。これを助けているのが公明党・創価学会です。とくに創価学会の選挙パワーが自民党を支えています」
森田実氏のWebサイトに紹介されていたある政治記者の話である。鋭い洞察力を持った政治記者である。いい得て妙である。特に「やがて“石”のほうが主人公になるでしょう」という部分は意味深長である。創価学会ウォッチャーの指摘によれば、庇を借りて母屋を乗っ取る、寄生獣(パラサイト)的体質も創価学会の特質だという。このことをこの政治記者はいいたかったのであろう。
「(公明党が)自民党と連立政権を組んだ時、ちょうどナチス・ヒットラーが出た時の形態と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における狂信的要素、この両者の間に奇妙な癒着関係ができ、保守独裁を安定化する機能を果たしながら、同時にこれをファッショ的傾向にもっていく起爆剤的役割として働く可能性を非常に多く持っている」
と『創価学会を斬る』の中で著者の藤原弘達氏は指摘している。
自民党はいまや寄生獣(パラサイト)に犯されているのだ。もう“古き良き”自民党の誇りや気概などないのだ。。だから私は自公“合体”政権と呼んでいるのだ。
安倍首相は、美しい国を作るのだという。安倍首相は、まずこの異常にしてあさましい自公“合体”政権を清算しないことには、美しい国など作れる筈がない。
(完)