裁判と政治
09年08月04日
No.1247
裁判員制度による初めての裁判が、昨日東京地方裁判所で始まった。東京地方裁判所の周辺には裁判員制度に反対する人々のデモがあった。裁判員制度はいろいろと話題になっているが、国民が歓迎している状態でないことだけは確かである。誰が何のためにこんな制度を導入したのか、依然として明らかではない。裁判員制度の導入を機に、形骸化しつつある裁判全体に改善の兆しがあるようにも思われない。これも“興一利不若除一害”の典型のひとつか?
裁判とは、人が人を裁くことである。畏れ多いことなのだ。しかし、誰かがその畏れ多いことをやらなければこの世が動かないから、裁判という制度があるのだ。裁判は、法律と裁判官によってなされる。法律は不動不変のように思われているが、重要な法律にはいろいろな解釈がある。法律を解釈する人によって、ある法律の意味するところが必ずしも同じではないことは多々ある。裁判官が人間であるは、言わずもがなである。畢竟、裁判とは人間が人間を裁くこと以外の何物でもないのだ。司法の信頼性は、裁判官という“人種”が信頼されているかどうかにかかっている。
自民党や公明党の面々が民主党のマニフェストに対して難癖をつけている。恥ずかしくないのだろうか。自公“合体”政権は良からぬことを沢山やってきたから国民から嫌われているのだ。そのことを反省し、これから何を改めるのかを明らかにしなければ、国民の信頼は取り戻せないであろう。民主党や野党のマニフェストの財源や不整合性をいくら非難しても、国民は自公“合体”政権の政治にウンザリしているのだ。自公“合体”政権が自分たちのマニフェストを自慢すればするほど、自公“合体”政権に対する支持は落ちるであろう。
選挙に勝つとは、国民の支持を集めることなのだ。相手を打ち負かすことではないのである。選挙戦を通じて政治家が国民と一体になることが重要なのである。国民がいま何を政治に望み、己は政治の世界で何をする覚悟があるのかを訴えるのが選挙戦なのだ。神ならぬ人間が政権を構成する一員(支配者)になるための厳粛な行為なのだ。それにしては厚顔無恥の候補者が多すぎる。薄っぺらい候補者が多すぎる。どちらもダメなのだ。
それでは、また。