「ないものはない」のだ
14年05月31日
No.1672
5月も今日で終わりだ。今月の永田町徒然草は、すべて憲法に関することだった。私が弁護士であるから仕方がないのかもしれないが、憲法は国の基本である。政治を語る場合、憲法を抜きに語ることができないのであるから、これは止むを得ない。それにしても、今回の集団的自衛権行使に関する安倍首相とその仲間の言っていることをみていると、あまりにもいい加減すぎる。彼らの論法はマヤカシであり、政治的詐欺師の手口そのものである。
その筆頭が、集団的自衛権の限定的行使容認論である。いま私たちに求められているのは、憲法論である。憲法論は、当然のことながら法律論である。情緒的な問題提起や扇動的な問題提起は許されない。あくまでも「集団的自衛権の行使は許されるか否か」を、今、私たちは議論しなければならないのだ。その前提として、私たちは「個別的自衛権の行使と集団的自衛権の行使」を峻別しなければならない。
集団的自衛権とは、「他の国家が武力攻撃を受けた場合に、直接に攻撃を受けていない第三国が協力して、共同で防衛を行う国際法上の権利」である。具体的にいうと、「日本が直接武力攻撃を受けていないにもかかわらず、A国がB国から武力攻撃を受けた場合に、A国に武力攻撃を加えているB国に対して日本が武力攻撃を加えれること」を、集団的自衛権の行使という。
集団的自衛権の行使が許されるか否かに関する歴代政府の解釈は、「我が国が、国際法上、集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されない」というものである(昭和56年5月29日の政府答弁書)。
ここで重要なのは、憲法9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており(すなわち個別的自衛権のことー白川注)、「集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」としていることである。すなわち「集団的自衛権の行使は、憲法9条の下では許されない」としているのである。
文中の“必要最小限度”は、行使が許されている個別的自衛権にかかっているのであり、集団的自衛権はそもそもないと言明しているのであるから、必要最小限度であるか否かなど、そもそも議論の対象とはならないのである。歴代政府がこのように解釈してきた理由は、憲法9条の文言そのものと、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」(憲法前文第1節)した立法趣旨からである。
私は、永田町徒然草No.1669「それでも地球は丸い」において、「集団的自衛権の行使が認められるか否かは、YesかNoのどちらかなのだ。集団的自衛権の行使も、限定的ならば認められる」などというマヤカシの屁理屈は、憲法論としてあり得ない、と述べた。すなわち、憲法を改正しない限り、集団的自衛権の行使は憲法上Noなのだ。いくら“限定的とか必要最小限度”などという条件を付けても、結論は、そもそも「ないものはない」のだ。
上記の政府解釈は、長い間の確定した憲法解釈である。この憲法解釈を“限定的であれ”変更するのであれば、憲法を改正しない限り、無理である。安倍首相とその仲間は、憲法を改正することなく、確定した憲法解釈を変更しようとしているのである。それは憲法を改正することと同じである。ハッキリと言っておく。彼らにそんな大それた権限など、ある筈がない。こんなことが許されたら、わが国は、いま話題となっている北朝鮮やタイなどと同じレベルの国となる。もし国民がこんなことを許したとしたら、国民も同じような
それでは、また。