“公共の福祉”の激突!?
09年04月06日
No.1133
先ほど朝のニュースを見ていたら、若いアナウンサーが“春本番”と言っていた。“夏本番”というのは分かる。“冬本番”というのもピンと来る。だが、“春本番”というのはちょっとピンと来ない。“秋本番”ともあまり言わない。日本語は微妙である。“春宵一刻、値千金”はちょっと爺むさいか。しかし、私はこの言葉が好きなのである。秋ならば“燈下親しむ”か。昼間でなくなぜ夜なのだろう。
昨日は1日中家に閉じ篭り、ある事件の上告理由書を書いていた。夕食をとりに出かけただけであった。近くの道路の桜が灯りに照らされて、艶かしいほどだった。そうだ!! だから“春宵一刻、値千金”なのだろう。外をほっつきたい気持ちを抑えて、1日半がかりで上告理由書を書き上げた。昨日に続いて、その触りの一節。
トートロジーへの戒め
自由主義経済の原理としての「営業の自由」の保障は、自由主義憲法における刑事手続に関する人権規定に匹敵する最も基幹的に・根源的な規定である。それは基本的人権と呼べば済むというものではなく、原理原則として現実に尊重されることを要する。換言すれば、「いろいろな営業」の自由が現実に保障されていることが、自由主義経済にとってはまさに“公共の福祉”なのである。
歴史的・経験的にみてきても、「いろいろな営業」が国民の叡智と努力で出現したことによって、自由主義経済は発展してきた。自由主義経済の発展のためには、「営業の自由」が国家によって保障されることがきわめて重要なのである。すなわち、あらゆる「営業の自由」を基本的に保障することが、最大の“公共の福祉”であることをまず確認しておかなければならない。
それ自体が“公共の福祉”である筈の「営業の自由」を制限する言葉として“公共の福祉”という言葉が使われる場合がある。現に憲法第22条第1項は「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と規定している。これなどは、その典型である。これを表面的にとらえれば、矛盾といえば矛盾である。トートロジー(同語反復)といえば典型的なトートロジーである。
しかし、自由主義憲法においてこのようなことはよく見うけられることである。そもそも世界初の自由主義憲法といわれるフランス憲法第4条にその始祖がある。同条は、「自由とは、他人を害しないすべてのことをなしうることにある。したがって、各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外の限界をもたない。これらの限界は、法律によってでなければ定められない」と規定する。これを門外漢が読めば、自由を保障しているといっても、結局は自由を制限しているではないかと思うであろう。
だが、ここに自由主義の真髄がある。自由主義社会の自由は、国家が定めた範囲内で自由を享受できるというものではない。国家といえども国民の自由を勝手に制限することはできない。自由主義国家における自由=基本的人権は、「侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられ」(憲法13条)た権利なのである。それを制限できるのは、「社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること」を妨げる場合だけなのだ。多くの論者は、これを自由に対する制限ではなく「自由の内在的制約」と呼ぶ。
この規定が自由主義の真髄を表しているという理由は次のようなものである。
自由に対する制限は、国家が恣意的に定めることができるものではなく、「各人の自然的諸権利の行使は、社会の他の構成員にこれらと同一の権利の享受を確保すること以外に限界がない」と明言していることである。基本的人権に対する制限は、他の人の基本的人権を阻害していないかどうかを個別具体的に判断して、その成否を決めなければならないと規定しているのである。
個別具体的に比較考量されるべきことは、ある人の基本的人権の行使(甲)と他の人の基本的人権の行使(乙)を具体的に明示し、甲と乙の人権の行使がどのように衝突し、甲の人権の行使により乙の人権の行使が阻害されていることを具体的に明らかにすることである。甲と乙は、同じような種類・性質のものでなければならない。種類や性質が同じものならば比較考量は容易であるが、種類や性質の違うものを比較考量することは困難であり、判断する者の価値観が介在するために恣意的な制限になる虞がある。フランス憲法第4条は、このことを現に戒めている規定なのである。