神聖な夜に
09年12月25日
No.1377
東京の街はイルミネーション流行(はやり)だ。それも、クリスマスだけではない。12月初め頃から始まり、確か1月いっぱいは続く。これはクリスマスや正月を祝うというより、ひとつの証明である。消費を煽る飾り物だ。私がクリスマスの荘厳さ、歓びを初めて知った十日町市には、そんな物はなかった。だから、教会のクリスマス・ツリーとキャンドルは、神々しかった。
クリスマスの頃になると、十日町市には雪が降った。クリスマスの歌を口ずさみながら雪明りの夜道を歩くと、クリスマスの雰囲気は一層高まった。私が宗教的な神聖さを初めて体験したのは、仏教ではなくキリスト教を通じてだった。いまは、もちろん仏教徒である…と言っても、かなりいい加減な仏教徒の部類である。宗教と私 ─ それは、私の人生や行動にかなりのウエイトを占めている。私の家系は神官であった。祖父の兄の代まで、白川家は神官だった。私の子供の頃は、奥座敷の神棚には神官時代の飾り付けと道具が、びっしりと並んでいた。
キリスト教・仏教・神道を通じて、私は、宗教な神聖さをそれなりに体験してきた。俗人たる私は、神聖なものを感じることはできるが、神聖なるものに近づく努力はしてこなかった。神聖さは憧れであり、崇敬の対象ではあるが、己自身を神聖なるものにする努力はしてこなかった。
宗教者に言わせれば、それは宗教をまったく理解せず実践していない者と断罪されるのであろう。ある宗教者から教わったことであるが、「宗教と思想や倫理の違いは、教えに帰依し行(ぎょう)ずること」とだという。教えに帰依し行ずるのが、宗教である。
私の行動の原点は、南無日本国憲法だという。これは、冗談ではない。私は日本国憲法に帰依し、それに従えるようそれなりの行を積んでいるつもりである。その帰依ぶりは、弁護士の枠を超えているそうだ。はるほど、だから私は、日本国憲法を侵す者を許すことができないのだ。だから、日本国憲法を侵す者と戦うことには何の迷いもないのだ。この10年近く自公"合体"政権と戦って来られたのも、その信念からである。
イスラム教とヒンズー教を通じて、神聖なるものを体感したことはない。だから、現在イスラム教の国々で起こっているジハード(聖戦)を私は理解することができない。しかし、他教徒がいくら“イスラム原理主義”と侮蔑しても、その原点が宗教的なものに起因している限り、ジハードを止めることはできないだろう。宗教的信念は、きわめて人間的な行為であり、その信念の正当性を他者に証明することを要しないのである。他者がこれを否定することはできないし、かつ不遜でさえある。
アフガニスタンで起こっていることも、イラクで起こっていることは、そのような問題が背景にある。だから、オバマ米大統領が何万人もの兵力を増強しても、おそらく成果を挙げることはできないと私は思う。宗教的な考察を除いても、他国民が力である国を幸せにすることなど、所詮できないのだ。それは、近代政治の哲理といってもよいのだろう。神々の争いを収めることができる神も仏も存在しない。神々は崇高だが、現実政治の世界では厄介な存在なのである。そんなことを思う、クリスマスの夜である。
それでは、また。