満開の桜に想う。
11年04月10日
No.1480
大震災のせいだけでなく、東京の気温は確かに低かった。そのため桜の花が開くのが例年よりかなり遅かった。そのためこの数日で一挙に満開になった。昨日は曇時々雨だったのでちょっと残念だったが、桜だけは満開だった。今日の日曜日は、天気も良く気温も暖かいという。東京はたぶん春爛漫の日曜日となろう。桜の花を見ると多くの人々は次の歌を思いだすのではないか。
ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ
ご存知の西行の歌である。「望月の頃」のせいか、私は次の歌をつい思い出してしまう。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
ご存知の藤原道長の歌である。桜の花と何の関係もない歌だが、満ち足りた思いを歌っている。春爛漫の桜を愛でると日本人はこのような気分になるのではないだろうか。その意味では、私の連想もまんざら間違っていないのかも知れない。春爛漫に満開の桜の花を見ると、なぜか増長慢を戒めなければならないと私はいつも思うのである。
話はガラッと変わるが、大震災から私はかなり緊張している。これだけの大震災であるのだから、私も無関係ではいられない。小さいがひとつの事業を営んでいる以上、その影響は白川勝彦法律事務所も大きく受けることは間違いない。政府が適切な対応をしてくれるなどと私は最初から期待していない。自分の経営は自らが守るしかないと覚悟している。
そのような想いがあるから、私は計画停電の間違いを最初から肌で感じた。白川勝彦法律事務所に懸かって電話や来所者の動向、事務所のスタッフの通勤や生活の状態などを私は詳細に把握しながら、日々の仕事や活動を一所懸命に行った。“霞が関の見廻り”も私の毎日の日課であった。その度に、わが国の政治家や官僚たちの本性を改めて知らされた。
最初のうちは計画停電のおかしさを誰も指摘しなかった。計画停電に異を唱えたのは多分私だけではないだろうか。「危機にどう対処するか」で政治家の質が判る。本物の政治家ならばいつも危機に直面している。だから危機への対応も俊敏なのだ。最近の永田町の政党や政治家たちが危機の対処方法が稚拙なのは、日々の活動において危機に直面していないからなのではないか。その遠因は小選挙区制にあるような気がする。
それなりの忙しく緊張した仕事や活動を終え自宅に帰ると、私は中学校のキャンプの時に歌ったドヴォルザークの『新世界から』の歌を口ずさむ。この歌の作詞が堀内敬三だったとはいま初めて知ったところだ。昔の作詞家は、奥が深い。私があまりシンガーソングライターを好きになれないのは、昔の詩人ほど奥が深くないからだ。やはり餅屋は餅屋に任せた方がよいのではないのか。
遠き山に 日は落ちて
星は空を ちりばめぬ
きょうのわざを なし終えて
心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ
いざや 楽しき まどいせん
まどいせん
やみに燃えし かがり火は
炎(ほのお)今は 鎮(しず)まりて
眠れ安く いこえよと
さそうごとく 消えゆけば
安き御手(みて)に 守られて
いざや 楽しき 夢を見ん
夢を見ん
ところで海江田経済産業大臣は「今後は計画停電を行わない」と発言した。たぶん今回も計画停電を行う必要がないことに気が付いたのではないか。海江田経済産業大臣なのか官僚なのか定かでないが、この程度のことが分からない人々がわが国の経済産業政策を立案・実行しているのだから何とも心許(こころもと)ない。まぁ、過ちを改めるに憚ること勿れだ。結構なことではないか。
それでは、また。