私たちが哲学的になる時
11年08月11日
No.1503
まさに、夏本番である。蝉が、元気で鳴いている。蝉は、長い地中の暮らしから脱して、いまを盛りと鳴いているのだ。暑い、暑いといって鳴いているのではないのだ。夏こそ生命を謳歌し、生命が育まれている季節なのだ。その結果、稔りの秋が来るのだ。「猛暑だ、酷暑だ」などとばかり言っていたら、バチが当たるぞ。そう考えて、暑さなどモノともせずに、私は懸命に頑張っている(笑)。
このくそ暑い中、世界中の株や為替が乱高下している。どうせ落ち着くところに落ち着くのだが、「儲けか、損か」となると、人はバカンスなどと言っていられないようだ。相場など無縁な私は、喜劇を観るように突き放して見ている。ただ、この動きは誰かが仕掛け、誰かが得をし誰かが損をしていることだけは、確かなようである。日本が仕掛け人でないことは、確かだ。アメリカ市場の激しい動きを見ながら、“おっかなびっくり”ついていってる東京市場なのだから…。
間もなくお盆が来る。私も郷里に帰省し、お墓の掃除とお参りをする予定である。お盆になると、私たちは先祖とか血縁というものを考える。私は、良いことだと思っている。私たちは、父や母の子供として生まれてきたのだ。その父や母にも、親がいた。せめて、祖父や祖母が生きていた時代に想いを馳せることは、大事なことなのではないだろうか。私は父45歳・母40歳の時できた子なので、祖父も祖母の思い出はないし、祖父母の時代をリアルに想像できない。父母も祖父母も、懸命に生きた。そして、私たち兄弟がいまここにいるのだ。
お盆の季節は、日本人が戦争ということを考える時でもある。私たちの世代にとって、戦争とは、日中戦争と太平洋戦争だ。66年以上前のことになるが、私たちはやはり、この戦争の桎梏から完全に解放されていない。100年も経てば、今日とは違った視点でアジアや世界を見たり感じたりできるのだろうが…。暑い中ではあるが、日本人が哲学的にならざるを得ない季節でもあるのだ。それは、私たちが豊かな人間となるために必要なことだと、私は思っている。
それでは、また。