年末…
11年12月25日
No.1528
最近は、年末の風情や雰囲気も変わってきた ─ と、いうより、多様化したようだ。年末年始はどこでも休日があるので、休暇の時と捉える人も、結構ふえてきた。そういう人たちにとっては、今年の12月23~25日は、その長期休暇の始まりだ。このまま長期の休暇に入ってしまう人もいるのかもしれないが、それは幸せな人たちだ。3・11大震災を筆頭に、今年はいろいろな事があり過ぎた。実に多くの人々が、難儀をしている。私には、その人々の悲鳴が聞こえる。
今年の年末は、明日の月曜日から仕事が始まり、大晦日が土曜日である。私は仕事柄、大晦日まで仕事をすることにしている。今年の年末は、緊張感のある年末であって欲しいものである。どの仕事でも、この不況下で事業を続けるのは、大変である。それを乗り越えるには、必死の努力しかない。今年の至らなかった事を振り返り、年末までにやれることはやり終えて、新年を迎えたいものである。だから、明日からの1週間は非常に大切なのだ。
人生はよくマラソンに例えられる。マラソンだって、最後のラスト・スパートは重要ではないか。年末は、そのラスト・スパートなのだ。私には、この年末までにやっておきたいことが山ほどある。そうして、新年を迎えたいと思っている。たぶん、来年は今年以上に厳しい年となるであろう。その厳しい中で、私たちは生きたいかなければないないのだ。実行→反省・総括→実行の繰り返しが、人生である。反省・総括が年末なのだ。
ところで、今日ようやく、NHKの特別ドラマ『坂の上の雲』が完結した。“坂の上の雲”というセリフは、多くの若い政治家たちが好んで使ってきた言葉だった。小説をあまり読まない私には、正確な意味が理解できなかった。今回のドラマをみて理解できるようになったかというと、必ずしも自信はない。私がよく聞いた政治家たちの演説では、“坂の上の雲”は、日本人が目標としてきた西洋文明の意味で使われていたように思う。司馬遼太郎の真意は、果たしてそうなのだろうか。これは、あの長い小説を読むしかないのだろう。
彼らはよく「わが国には、もう“坂の上の雲”はなくなった」といっていたが、果たして、わが国が外国から学ぶものは無くなったのだろうか。私は劣等感が多い方なので、もう学ぶものがないなどと思うことは、滅多にない。吉川英治の「我以外、皆、師」という方だ。人もそうだが、国や民族にも同じようなことがいえるのではないのか。それぞれに国に息づいているもの、それぞれの民族が長い歴史の中で築き上げてきたものに接するとき、私はいつも深い感動を覚える。
同じようなことは、わが国やわが民族にもいえるのでないだろうか。決して恵まれた国土といえないこの国で、特殊な政策(たとえば“260年に及ぶ鎖国”)や政治制度(たとえば皇室と政権の二重構造)の中で築き上げられた way of life に、他国や他民族の参考になるものが多くある筈だと、私は思っているのだ。そういうことを自覚したとき、本当の自信と自尊心が生まれると思っているが…。
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。