売党奴(その2)
13年02月02日
No.1552
先週の永田町徒然草で、「売党奴」なるあまり聞き慣れない言葉を使った。その珍しさもあってか、多くの人々からアクセスを頂いた。売党奴という言葉を公に使ったのは初めてだが、私の中には、この言葉は実は、長いことあったのである。それは、自民党という政党を売った者たちがいたからである。私は、“自由民主党”という政党に特別な想いをもっていた。私が衆議院議員を目指して公的な政治活動を始めた昭和50年に、自由主義を党是として掲げる政党は、自由民主党しかなかった。
それ以外の政党は、その綱領等に、自由主義以外の政治理念を掲げていた。自由主義者として所属すべき政党は、自民党しかなかったのである。そして、私は自民党に入党した。自由主義のもっとも基本的要素は、あらゆることについて、自由な意見の表明が許されることである。自由主義者にとって、いちばん大切なことは、批判精神である。自由主義社会では、タブーなど存在しない。あらゆることが批判の対象になり、自由な言論活動を通じて真実に近づくことを、自由主義は理想としている。
当時の自民党が本当に自由主義政党であったかどうかは、人により意見の分かれるところであろう。しかし、自由主義が綱領的文書において標榜されていたのだけは、確かである。そして、党の運営において、これを否定する者はなかった。シリアスな問題においても、自由な意見の表明は許され、それに基づく政治活動で党から排除されることなどなかった。もちろん、自民党内には多数派と少数派があり、少数派が、待遇等で不利な処遇を受けることは、あることはあったが…。
私は、自民党の衆議院議員になったが、自由な意見を抑えられはしなかった。例えば、憲法に関する発言でも、憲法改正は「現時点において、必ずしも必要ない」と、自由に発言した。もちろん、改憲派からは「自民党は、憲法改正を党是としている。これに賛成できなければ、党を出ていけ。」などと言われはしたが、党の正式な機関で問題にされたことはなかった。スパイ防止法案などについても反対したが、「国族」などと呼ばれることはなかった。
このように、自由な活動が曲がりなりにも確保されてきた自民党が、大きく変質される危機が起こった。それは、公明党との連立問題であった。ある政党の、いろいろな理由での他の政党との合掌連携は、政治の世界ではあり得ることである。私は、それ自体を否定する者ではない。しかし、ある政党と連立政権を組むことにより、立党精神や存立が危うくなるようであれば、それは批判されるべきであり、連立などすべきではない。
自民党は、平成8年の総選挙において、ライバルであった新進党批判の中で、「創価学会・公明党を抱える政党の反自由主義性」を厳しく追及したのである。俗な言い方をすれば「その舌の根も乾かぬ」のに、それに明らかに反して公明党と連立するなど、決して許されることではなかった。もちろん、自民党の中にも多くの反対論はあったが、時の小渕恵造総裁・首相の主導により、公明党との連立がなされた。平成10年のことである。
自民党と公明党との連立は、一時的な政策目標を実現するための連立ではなかった。選挙協力を含む、文字通りの連立であった。自民党は、創価学会・公明党を抱える政党となってしまったのである。効果覿面、創価学会・公明党の反自由主義性は、自民党にもろに現われた。自民党内において、公明党との連立を批判するのはタブーとなった。俗な言い方をすれば、自民党は、非自由反民主党となった。公明党との連立が固定化してしまった自民党に、一人の自由主義者として留まることはできないと判断して、私は、平成13年2月に自民党を離党した。
自民党という政党は、曲がりなりにも、自由で平等なわが国を作ってきたという自負が、私にはあった。多くの自民党政治家も同じような自負をもっていた。それが、音を立てて崩れ去ったのだ。この頃の数年間、誰がいったい、自民党をこのような政党にしてしまったのか、いつも考えていた。それらの人物こそ、「自民党を創価学会・公明党に売り渡した“売党奴”」と、私は思ってきた。自公“合体”政権における自民党は、嘗ての自民党とは質的に異なる存在なのだ。このことを、国民は肝に銘じなければならない。
自民党を創価学会・公明党に売り渡した売党奴によって、わが国の政治は大きく変わった。それだけではない。わが国の社会のあり方まで、大きく変わった。中でも特筆すべきは、マスコミを中心とする分野であろう。マスコミに対して、創価学会は大きな影響力をもっている。自公“合体”政権の中で、創価学会・公明党は、マスコミにとって極めて大きな存在となった。マスコミの変質の大きな原因のひとつは、それによるのであろう。
今日は、このくらいにしておこう。それでは、また。