現実を直視し、現実に拘れ!
08年05月18日
No.810
だいぶ大人しくしていたから、昨日の体調はかなり良かった。昨日やらなければならないことは、キチンとやり遂げた。そして“病み上がり”だから、仕事が終わると真直ぐに家に帰った。今日は大人しく過ごし、明日からは体調万全で頑張らなくてはならない。風邪のために永田町徒然草もちょっと気合を抜いてしまった。読者に申し訳なく思う。
ところで風邪というのは病気なのだろうか。癌とか心筋梗塞というのは、病気であることは常識である。切除するなり治療を施さないと大変なことになる。風邪というのはこのような病気とはちょっと異なるようである。無理して頑張れば、どうにかなることはなる。しかし、とても普通の状態ではない。体もつらい。風邪は万病のモトという言もある。こじらせると大きな病気につながる。
話は急に広がるが、わが国の政治状況や社会状況はどうなのだろうか。どう贔屓目にみても健全とは言いかねる。誰もが“どこかおかしい”と感じている。風邪のように体調不良という状態なのだろうか。それとも癌とか心筋梗塞のような病気という状態なのだろうか。早く適切な処置を施さないと生命を失うこととなる状態なのだろうか。人によって意見は分かれると思うが、私はかなり深刻な状態だと考えている。
私が深刻な状態だと考える理由は、普通のことが普通のこととして行われていないことである。正常なことが正常なこととして行われなくなったからである。わが国の全体のシステムやリズムが、正常さを失ってしまっているからである。これまでもわが国は混乱や激動を繰り返してきた。私は混乱や激動を恐れる者ではない。むしろ“混乱を通じて調和へ”と考え方であり、混乱をポジティブに評価する方である。この信条はいまも変わっていない。
しかし、現在のわが国の混乱や激動は、私がこれまでみてきた混乱や激動とは何か違うのだ。どうしてもポジティブに受け止めることができないのである。正常な組織やリズムが崩壊し、生命体としての力を失っていくように思えてならないのである。たとえば国民の3分の2の意思に反することが、憲法59条の3分の2条項で次々と国家の意思として決められている。それなのにデモもストライキも起きない。こんなことはわが国ではなかった。独裁国家でもなければこんなことは考えられない。
日本人は“当り前のことを当り前のこととして拘(こだわ)らくなった”ようである。私は保守的になれといっているのではない。私は自民党の国会議員を長くやってきたが、保守的でない生き方をしてきた。“保守的になれ”などとは、口が腐ってもいうつもりはない。“あらゆることを徹底的に批判せよ”という方である。それなのになぜ“当り前のことを当り前のこととして拘れ”とあえていうのだろうか。
“当り前のこと”とは、これまで現実に通用してきたことである。現実的なことは合理的である。これが保守の基本的な思想である。しかし、それだけでは保守そのものであり、伝統墨守となる。私が言いたいのは、現実を直視せよということなのである。現実を直視し、現実を批判的に捉えることにより“変革のエネルギー”が生まれる。現実に拘り・現実から出発するのでなければ、変革など大したものにはならない。私があまりハイカラなことをいったりやったりしないのは、このような理由からである。ちょっと抽象的だが、これからこのことを具体的に論じることとする。
それでは、また。