“ねじれ”論(その2)
08年06月30日
No.855
<永田町徒然草No.855からつづく>民主政治においていちばん重要なことは、国家意思の決定が国民の意思と乖離していないことである。世論調査などという手法がなかった時代は、国会の意思を国民の意思とすることにあまり抵抗がなかった。しかし、世論調査の技術が進歩して、国民の意思が世論調査によって正しく捉えられるようになった。
先ほど挙げた事例においては、新テロ特措法案も道路特定財源の暫定税率の復活も国民の大多数の意思と明らかに食い違うものであった。食い違うなんてもんじゃない。自公“合体”政権は、国民の意思と明らかに反する決定を再可決で決定したのだ。これを正当化するいかなる理屈も虚しい。これを正当化する唯一の途は、自公“合体”政権が衆議院を解散し再び再可決に必要な議席を確保することである。
権力が己の“正統性”を国民に示す途は、理屈でなく事実しかないのである。現在の国会のねじれ現象を否定的に捉え、自公“合体”政権の再可決による問題の処理を非難しない政治家や政治評論家は、この根本が分かっていない。権力の正統性を事実ではなく屁理屈によって正当化しようという輩なのだ。権力の正統性に拘らない権力者は、卑しい権力者である。
現在のねじれ現象を問題にする人は、もうひとつ重要な点を故意に見逃している。国民の間で意見の分かれる大きな問題を、自公“合体”政権は再可決によって決着を付けた。自公“合体”政権にとって権力と国会の意思は乖離していないのである。衆議院と参議院の意思が異なることなど、手続的に煩雑なだけのことに過ぎないのだ。最後は再可決によって権力行使に必要なことを自公“合体”政権の意思で実現できたのだ。
自公“合体”政権にとって、権力と国会など少しもねじれていないのだ。ただ手続が少しだけ煩雑なことだけである。そもそも民主政治とは、権力に対する不信感から権力行使を不都合にする手続である。手続が煩雑なことを憂える政党や政治家などは、民主政治の本質を理解していない輩なのである。
民主主義体制においては、国家意思の形成が煩雑なことなど当り前のことなのである。その証拠に独裁国家における国家意思の決定は、単純であり迅速である。重要なことは最後の決定権がどこにあるかという点だ。自公“合体”政権が衆議院で3分の2を超える議席をもっている現状では、最後の決定権を自公“合体”政権がもっているのだ。そのことを私たちは片時も忘れてはならない。 <つづく>