素人農業の経験
08年07月05日
No.860
昨日、私ははじめてムッとするような暑さを感じた。今年の東京の梅雨は、だいいち雨が少なかった。それに湿度が少なかった。梅雨独特のジメジメしたところがなかった。雨の降らない日など五月晴れのように爽やかだった。過ごし易いといえば過ごし易いのだが、これでは作物は育たない。やはり梅雨の晴れ間は、ムッとするようで好いのだ。
このようなことが言え、本気でそう思えるのは、私に農業の体験があるからであろう。私の家は農家ではなかったが、3反5畝(35a)の田圃と1反(10a)の畑があった。商売(機屋)が順調だったときは、専門の手伝いの人々が耕してくれていた。商売が倒産した後は、家族でこれを耕さなければならなかった。父は病気がちであったし齢60を超えていた。威勢はよいのだが、実際に農作業をすることは苦手だった。母の実家は農家だった。だから農作業は上手かったが、既に50歳を超えていた。
私は中学生だったので、農作業を手伝わされた。残された田畑を耕さなければ、わが家は食べていくことができなかった。私のひとつ上の姉(年齢は5歳上だった)も中心的な働き手だ。この4人だけは田植えや植え付けなどができなかったので、その時は農家の方が手伝いにきてくれた。専門の農家の方の仕事ぶりは見事で力強かった。しかし、メインテナンス的な農作業は私たちの手でなんとかやり遂げた。この田畑があったから、私たちは倒産後なんとか食い繋いでいくことができた。
いま家庭農園がブームだが、私たちの農業はそれに比べればもっと本格的なものであった。文字通り生活がかかっていたのだ。倒産したのだから、現金収入は本当に少なかった。しかし、自分の家の田畑で採れた作物であるから、野菜は新鮮で美味しかった。3反5畝の田圃であったが、一度として30俵を超える収穫はなかった。それでも家族では食べ切れなかった。母は少し換金したと思う。わが家はこんな素人農家であった。農作業はきつかったが、あまり惨めさはなかった。それが農業たる所以であろう。田舎では農業をすれば生きていけると素朴に信じていた。またそうやってどの家も生き抜いてきた。
こんな生活にいささかの郷愁と憧れがある。それでは、また。