これにて打ち止め!
07年01月08日
No.299
昨日は温故の年賀状書きに専念した。夕刻には今回出そうとしていたものを書き終えたし、用意した年賀状もちょうどなくなった。本当はまだまだ出さなければならないところもあるし、それを確定する基礎名簿もあることはある。だがそれは膨大なものである。今回出した年賀状は2300枚余である。これを一旦コンピュータに登録した上でないと膨大な資料からピックアップしたとしてもダブりが出てくる。人間の記憶力なんてそんなにたいしたものではない。田中角栄氏は一度会った人の顔と名前は絶対に忘れなかったというが、そんなことは人間として不可能だ。私の経験を述べよう。
私は昭和50年秋郷里に帰り衆議院選に立候補する腹を決めた。新潟県で衆議院に立候補するのであるから、郷里の先輩として田中角栄氏に会いそのことを伝えることは礼儀と考えた。同年8月ころ私は目白の自宅に田中氏を訪ねた。結局2度お会いした。翌51年12月衆議院選挙があり、私は3万余票を得ることはできたが初戦あえなく落選した。昭和52年か53年に田中氏の母堂フメさんが死去された。私は弔問に訪れた。田中氏は縁側にどっかりと座り、多くの弔問客を接見していた。私も長い列に並んで田中氏に弔意を述べた。田中氏は私をまったく認識していないと肌で感じた。
前に田中氏と会ったのは1対1である。当選できるかどうかは別にして田中氏の隣の選挙区から出ようとしている男なのである。政治家はこういう顔だけはなぜか忘れないものである。おおぜいの弔問客に混ざっていたこともあるが、田中氏は私を明らかに私と認識していなかった。そのことは私がいちばん感じているからまず間違いない。しかし、田中氏は私の弔問をおおいに感謝していた。私は弔問に訪れて良かったと思った。田中氏といえども人間である。一度会った人間は絶対に忘れないなんてことはありえない。だからといって私は田中氏の政治家としての資質に異を挟むつもりは毛頭ない。ただこれだけはいえる。いつどこで会ったのかは思い出せないが、一度あった人いうのは政治家はなぜか分かるのである。これは政治家の戦いの中で身につける何かである。
そんなことであるから膨大な名簿の中から今後年賀状を出す人をピックアップすることは、今回出した人をコンピュータに入力した後で行うこととする。これまでの中にもすでに相当のダブりがあると私は思っている。人間の頭で整理できるのはせいぜい数百人くらいであり、1000人を超えるとコンピュータを使わないとまず無理である。夜のニュースを見ていたら、大相撲初場所が始まっていた。相変わらず朝青龍の勝ちっぷりは豪快だった。私の贔屓の白鵬は勝つことは勝ったがちょっと不安があった。それはそれとして、大相撲にならって温故の年賀状書きは本日をもってとりあえず打ち止めとする。
それでは、また。