“矢野告発手記”(その2)
08年07月28日
No.883
昨夕、ほんの“お湿り”程度だったが、雨が少し降った。雨はもうとっくに止んでいるが、そのせいで爽やかな空気が窓から流れ込んでくる。自然は大きなクーラーの機能をもっているのだ。東南アジアでは1日に1回スコールがあるという。そのために暑さがかなり和らぐのだろうか。植物が元気になることは疑いない。これは確実に暑さを和らげるのだろう。自然は上手くできている。さて昨日のつづきだが…。
「公明」が新進党に合流しなかった理由
静穏地帯をめぐってはその後、こんなことがあった。平成9年当時、旧公明党は衆議院では新進党に合流しており、参議院の半分も前回の参院選において残りの10名前後の参院議員は「公明」に所属していたが、当時「公明」代表だった藤井富雄氏は、翌年に予定されていた参院選において、残りの「公明」参院議員も新進党で選挙を戦うと発表してしまった。
すると、ある自民党の実力者が私に、「学会本部に街宣が来るようになるぞ」と耳打ちしてくれた。国会議員が5名以上いなければ、政党本部ではなくなるのだ。そうなれば、学会本部は静穏地帯の規制が外れてしまう。それで、私は学会首脳に事情を告げると、大慌てで方針転換して、残りの参院議員は新進党ではなく「公明」から出すことにした。学会本部周辺に街宣活動をさせたくなかったからだ。これは政教一致そのものかも知れない。
若干補足しよう。衆議院への小選挙区制導入を主たる内容とする新しい選挙制度改革法が成立したのは、平成6年であった。これを受けて新進党が結成されたのは平成6年12月である。この時、旧公明党の大半は新進党に参加した。旧公明党の参議院非改選組と地方議員は「公明」を結成し、これに合流しなかった。平成6年6月に村山富市氏を首班とする自社さ政権が誕生した。自民党は政権に復帰したが、党勢はあまり芳しくなかった。
平成7年夏には参議院選挙が行われた。この時、新進党は躍進した。比例区で18議席を獲得したのは新進党であった。自民党は比例区で15議席しか獲得できなかった。新進党が比例区で第一党になった意味は絶大だった。一種の新進党ブームが起こった。多くの新人は、初めて行われる次の衆議院総選挙で新進党から出ようと、新進党に走った。
自民党は河野洋平総裁を橋本龍太郎総裁に変えた。新しく幹事長となった加藤紘一氏の下で私が総務局長に就任したのは平成7年10月末であった。自民党と新進党との真っ向勝負の始まりである。旧公明党衆議院議員は新進党に合流しており、来るべき総選挙で新進党から出馬することは確定していた。平成7年の参議院選挙では、旧公明党の参議院議員は新進党から出馬していた。しかし、旧公明党の参議院議員・地方議員を中心とする政党「公明」の動きは、私たちには不可解だった。
一対一の真っ向勝負では、それぞれの極に集中することが大切なのである。旧公明党参議院議員の非改選組と旧公明党所属の地方議員が、新進党に合流せず新しく結成された政党「公明」に残留していたことは、私たちの選挙運動にとって微妙な影響を与えていた。選挙の現場では、こうしたことが微妙に影響するのである。新進党から立候補する候補者にとっては、私たちよりはるかに複雑で大きな影響があったのだと思う。
平成8年10月に小選挙区制での初めての衆議院総選挙が行われた。自民党は過半数近くを獲得したが、新進党は156議席だった。一挙に政権獲得を目指した新進党には動揺が走った。私は次の選挙も同じ構図になると思っていたが、新進党の動きは複雑だった。そうした中で旧公明党の参院・地方議員を中心とする政党「公明」が新進党への合流を取りやめ、平成10年の参院選に独自で臨むことを決定した。これにより小沢一郎氏と旧公明党の対立は決定的になった。平成9年12月小沢一郎新進党党首は両院議員総会を開き分党を決定し、自由党、改革クラブ、新党平和、新党友愛、黎明クラブ、国民の声の6党に分裂した。
その後の10年余の動きを述べると長くなるのでやめる。小選挙区制の下では、野党が一本でいることは大切である。10年かかって野党はようやく民主党を中心に収斂しようとしている。その意味で新進党の分党は日本の政治にとって“失われた10年”の始まりだったのだと思う。私は対極からみていたが、その原因のひとつに旧公明党や「公明」の不可解な動きがあったことは確かである。「公明」の新進党への不参加は大きな意味をもっていた。その理由が矢野氏の述べているとおりだったとしたら、現代政治史の第一級の証言である。矢野氏の国会招致は、今後の国会の大きなテーマとなるのではないか。
それでは、また。